Mag-log in九条玲司を、綾乃は信用していなかった。
それは感情的な拒絶ではない。
むしろ、冷静に積み上げた判断の結果だった。結婚して半年。
同じ九条邸に暮らしていながら、玲司がどんな一日を過ごし、誰と会い、 何を考えているのか―― 綾乃はほとんど知らない。知ろうとしなかった、という方が正しいかもしれない。
最初から、彼は一線を引いていた。
「夫婦としての時間は、基本的に必要ない」
そう言い切った男だ。
距離を詰める気など、最初からなかったのだろう。朝はすれ違い。
夜は不在。 言葉は必要最低限。 感情は、徹底して見せない。それでも、
九条玲司は綾乃を“見ている”。それが、綾乃には不気味だった。
――不正案件を知った夜。
書斎で資料を読み込み、ページをめくる指が震え始めた頃、
まるで待っていたかのように、玲司は現れた。「気づいたか」
あの一言。
今も、はっきりと耳に残っている。最初から知っていた。
知ったうえで黙っていた。 そして、綾乃がどう動くかを見ていた。試されたのだ。
妻としてではない。
会社の人間として。 あるいは、駒として。「君がこの件にどう動くか、見たかった」
その言葉を、どうすれば信頼に置き換えられるというのか。
九条玲司という男は、常に一段高い場所に立っている。
安全圏から状況を見下ろし、判断し、
必要とあらば切り捨てる。そういう人間だと、綾乃は思っている。
父も、祖母も、
「九条家の人間は、感情よりも責任を取る」 そう語っていた。称賛のように聞こえるその言葉は、綾乃には、別の意味に聞こえていた。
――感情は、切り捨てるもの。
そんな価値観の男を、どうして信用できるだろう。
仕事の場で、綾乃は幾度も判断を下してきた。
部下を守るために、上司と衝突したこともある。 失敗すれば、自分の立場が危うくなる場面もあった。だからわかる。
九条玲司は、「切る決断」ができる男だ。
迷わず。
躊躇なく。もし、綾乃が鷹宮の娘でなかったら。
もし、この結婚が政略でなかったら。そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが走る。
だが――
あの夜、綾乃が資料から目を逸らさなかったとき。
「それでも、君は黙らないだろう」
そう言った玲司の声は、記憶の中で、なぜか冷たく響かなかった。
評価だったのか。
期待だったのか。 それとも――確認だったのか。綾乃は、はっきりと心の中で結論を出す。
信用しない。
信用しないからこそ、自分は自分の足で立てる。
信用しないからこそ、九条玲司の隣に、対等に立てる。
だがもし。
もしこの男が、切る覚悟だけではなく、
守る覚悟も持っているのだとしたら――そのとき、この結婚は、綾乃にとって何になるのだろう。
九条邸の夜は、相変わらず静かだった。
一人きりの寝室で、綾乃は天井を見つめる。答えは、まだ出ない。
だが一つだけ、確かなことがある。
この男から、決して目を離してはいけない。
そう、直感だけが、
強く、はっきりと告げていた。鷹宮財閥の当主交代パーティーで起きた騒ぎは、その日のうちに政財界へと広まっていた。会場に居合わせながら騒動に気づかなかった者たちも、パーティーが終わる頃には、その詳細を耳にすることになった。何しろ、鷹宮財閥の当主交代という一大行事である。政財界の有力者たちが一堂に会するこのパーティーには、業界でも名の知られた記者たちも招かれていた。会場の入り口を通った者なら、誰もが気づいていたはずだ。正面玄関付近には、招待客を出迎えるスタッフに交じり、政財界御用達の記者やカメラマンたちの姿があった。もちろん、彼らも最初からゴシップ記事を書くために来たわけではない。今日の主役は、長年にわたり鷹宮財閥を率いてきた鷹宮正隆と、新たに当主の座を引き継ぐ鷹宮和真だ。財界の勢力図にも影響を及ぼす可能性のある世代交代。その背景や、今後の鷹宮財閥の経営方針について、どのような発言が飛び出すのか。記者たちは、それぞれの取材目的を胸に会場へ入っていた。ところが―――。パーティーが始まり、和真が正式に当主就任を発表したあと、会場の一角で思いがけない騒ぎが起こった。最初に異変に気づいたのは、会場内を見渡していたカメラマンだった。「……おい、あそこ。神崎社長じゃないか?」カメラマンは、グラスを手にしたまま、会場前方の中央付近へ視線を向けた。神崎壮真が、何やら険しい顔で和真に詰め寄っている。その周囲には、鷹宮家や九条家の人々、そして壮真の元妻である神崎美玲の姿もあった。「何か揉めてるのか?」隣にいた記者も、すぐにそちらへ目を向けた。最初は、親族間のちょっとした意見の食い違いだと思った。だが、壮真の表情は明らかに険しく、和真も一歩も引いていない。周囲の招待客たちも談笑をやめ、二人の様子を窺っている。これは、ただ事ではない。記者の胸の内で、取材者としての勘が働いた。「ちょっと待て……。鷹宮、神崎、それに九条までいるぞ」記者は、会場の奥に立つ九条玲司の姿を確認した。財界でも別格の存在感を持つ玲司が、わざわざ騒ぎの場に姿を現している。つまり、単なる兄弟喧嘩では済まない何かが起きている可能性があった。「おい、カメラ。撮れるか?」「もちろんだ」カメラマンは、すでにカメラを構えていた。普段なら、こうした公式行事で無闇にシャッターを切ることはしない。主催者側との関係も
「兄さん、ここでの騒ぎは困ります。一旦、落ち着いてもらって、今日のところはお引き取りください」和真の言葉は、決して大きな声ではなかった。しかし、その声音には、鷹宮財閥の次期当主としての揺るぎない意志が込められていた。兄を気遣うような遠慮も、機嫌を損ねまいとする配慮もない。今の和真にとって、目の前で騒ぎを起こしている壮真は、たとえ実の兄であっても、特別扱いする相手ではなかった。その態度が、壮真の神経を逆撫でした。「これが落ち着いて話せることだと思っているのか!?」壮真はカッとして顔を上げた。胸の内には、抑えきれない怒りが渦巻いていた。実の弟の当主就任パーティーだというのに、周囲の招待客からは、好奇心に満ちた視線を向けられ、つい先ほどは、離婚したばかりの美玲から公然と恥をかかされた。しかも、彼女が養子に迎えた少年は、よりにもよって自分の息子である康太だった。それだけではない。和真は、その康太を神崎家の後継者として紹介したのだ。自分が何年も認知せずにいたことなど、棚に上げているとわかっていても、壮真には到底受け入れられなかった。自分の知らないところで、神崎家の未来が勝手に決められていく。長男である自分を差し置いて、弟と元妻が手を組み、息子まで自分の手の届かない場所へ連れていこうとしている。――ふざけるな。そんなことが許されてたまるものか。「実の弟の就任パーティーで末席に案内され、離婚したばかりの妻が養子を迎え、それが神崎財閥の後継者だと言われたんだぞ!!俺の立場って物があるだろう!!お前はそれをわかって言っているのか!?」壮真は和真に掴みかかって行った。周囲から、小さなどよめきが起こる。招待客たちは、まさか本当に手を出すとは思っていなかったのだろう。先ほどまで面白がっていた者たちも、さすがに表情を強張らせた。だが、和真は一歩も引かなかった。壮真に襟元を掴まれても、怯むことなく、まっすぐ兄の目を見返している。「兄さんが今までしてきたことの、報いかもしれないですね」その一言が、壮真の理性を吹き飛ばした。「何だと!!?」まさか、実の弟にここまで言われるとは思っていなかった。今まで和真は、自分に逆らうことなどほとんどなかった。神崎家の中では兄である自分の立場を尊重し、父・正蔵の前でも一歩引いていたはずだ。それなのに、今の和
「いつまで私の腕を握っているつもり?」冷ややかな声が、壮真の耳に突き刺さった。その声に、壮真はハッとして自分の手を見た。美玲の腕を、まだ強く握りしめていた。雪乃と康太が、まさかこの場にいるとは思わなかった。ましてや、あの少年が自分の息子でありながら、今では美玲の養子として、神崎家の後継者に迎えられようとしているなど、想像すらしていなかったのだ。頭の中は、怒りと混乱でぐちゃぐちゃだった。なぜだ。なぜ、こんなことになっている?自分の知らないところで、いったい誰が何を決めたというのだ。康太は自分の息子のはずだった。血のつながりがあることは間違いない。それなのに、なぜ自分ではなく、美玲があの子を神崎家に迎えることになっているのか。しかも、和真の口からは、康太を神崎家の後継者にするとまで発表された。壮真の胸の奥で、煮えたぎるような憤りが膨れ上がった。自分を差し置いて、勝手なことを――。だが、そんな怒りをぶつけるべき相手が誰なのかさえ、今の壮真には整理できていなかった。美玲は壮真の手を払うように腕を振ると、まるで汚らしいものでも触れたかのように、ハンカチを取り出して腕を擦った。その仕草は、あまりにも露骨だった。「育ちの悪い女を散々触った汚い手で、私を触らないでくれるかしら」吐き捨てるような言葉に、壮真の顔が一瞬で険しくなる。玲子のことを言っているのだ。しかも、美玲はわざと周囲にも聞こえるような声で言った。言葉の端々に込められた侮蔑は、壮真だけでなく、彼の背後にいる玲子にまで向けられていた。壮真は反射的に振り返りかけた。玲子がどんな顔をしているのか、確かめたかったのかもしれない。あるいは、自分たちを嘲るような視線を向けてくる者たちから、彼女を庇おうとしたのかもしれない。しかし、その前に美玲は踵を返し、自分の席へ戻ろうとした。まるで、壮真など相手にする価値もないと言わんばかりだった。「待て!」壮真は再び美玲の腕を掴んだ。「美玲、このことをちゃんと説明しろ!!」怒鳴り声が会場に響き渡った。その瞬間、近くで談笑していた招待客たちの声が、ぴたりと止まった。グラスを口元に運んでいた者も、隣人と笑い合っていた者も、いっせいに二人へ視線を向ける。何が起きたのか。なぜ、神崎グローバルトレーディングの社長が、離婚したばかりの元妻に人目
乾杯の音頭が取られ、司会者の「……ご歓談ください」という言葉が会場に響くまで、壮真は立ち尽くしたままステージを見つめていた。周囲では、次々とグラスが掲げられる。「おめでとうございます」「鷹宮財閥のさらなる発展を――」そんな祝いの言葉が飛び交い、華やかな音楽が流れ始める。だが、壮真の耳には、そのすべてが遠かった。壇上から降りた康太。そして、その康太の手を引いていた美玲。――神崎家の後継者。和真がそう紹介した言葉が、頭の中を何度も駆け巡っている。「神崎康太です」その名前が、胸の奥に突き刺さったまま抜けない。ハッと我にかえると、周りは皆グラスを持ち、立ち上がって談笑していた。壮真は、自分だけが取り残されていたことに気づく。「……康太……」無意識に、その名前を呟いた。だが、すぐに唇を噛みしめる。違う。何かがおかしい。なぜ美玲が康太を養子にする?なぜ和真が、あの少年をここまで大々的に紹介する?そして――。あの少年の隣には、誰がいる?壮真はその場から一目散にステージの真下あたりのテーブルへ向かって大股で歩き出した。胸の奥が騒いでいた。確かめなければならない。自分の目で。玲子が何かを言ったような気がしたが、壮真には聞こえていなかった。玲子は壮真がステージの方へ歩いて行くのを見ると、自分の壮真の後を追って足早に歩き出した。「壮真さん……!」玲子の声にも、壮真は振り返らない。ただ、前だけを見ていた。ステージの下の真ん中のテーブルには、鷹宮家、九条家、そして神崎美玲と康太が座って笑い合っている。そこだけが、まるで別世界のように穏やかな空気に包まれていた。和真は周囲の客と談笑し、心春も笑っている。叶翔と櫻羅も穏やかな表情を浮かべていた。そして――。その中心に康太がいる。壮真が息を切らして駆け寄ると、叶翔が立ち上がって壮真の前に立ちふさがった。「壮真さん!!」しかし、壮真は叶翔の姿が目に入っておらず、美玲と並んで座っている小さな少年だけを見ていた。康太。間違いない。あの顔。あの目。何度も写真で見たことがある。自分が直接会おうとしなかった少年。自分の血を引いている可能性がありながら、認めることから逃げ続けてきた少年。今、その少年が自分のすぐ目の前にいる。しかも――。自分の家の人間たちに囲まれ
「本日の特別ゲストをご紹介いたします」和真の声が会場に響き渡った。その瞬間、会場にいたすべての人間の視線が、一斉に少年へと集まった。壇上の中央。そこに立つ小さな少年―――康太は、何十人、何百人もの視線を一身に浴びることになった。大人たちの視線。財界の重鎮たちの視線。そして、今まで自分が見たこともないような豪華な会場。康太には、そのすべてがあまりにも大きく感じられた。緊張で喉が乾く。心春に握られていた小さな手にも、自然と力が入った。――怖い。そう思ったのかもしれない。康太が一歩後ろへ下がろうとした。すると、すかさず美玲が少年の後ろへ歩み寄った。美玲は何も言わなかった。ただ、康太の小さな背中にそっと寄り添うように立つと、心春の手から少年の小さな手を受け取った。その手を、しっかりと握る。康太が美玲を見上げる。美玲はそんな康太に、ほんのわずかに微笑んだ。大丈夫。そう言っているような目だった。心春も美玲に康太を預けると、静かに和真の横へ移動した。和真が会場の方へ体を向ける。壇上に立つ和真の表情は、先ほどまでと変わらず穏やかだった。けれど、その立ち姿には、先ほどの挨拶以上の威厳があった。これから紹介するのは、ただの子供ではない。自分と血のつながった、大切な存在。そして――。これから神崎家という一族の未来に関わっていく少年なのだ。和真は一度、会場をゆっくりと見渡した。視線を急がせることなく、一人ひとりに語りかけるように。その姿には、鷹宮財閥の新たな当主としての自覚がにじんでいた。そして、静かに話し出した。「みなさま、この少年は、ボクの血縁の者になります。今まで、ボクらにもその存在を知らされず、最近になって初めて血縁だと知った次第です。この少年を神崎家に迎えるにあたり、ボクにとっては義姉にあたる、この「神崎美玲氏」が、養子として迎えることとなりました」その言葉を聞いた瞬間、会場の空気が変わった。「血縁の者」。その言葉だけでも十分に意味がある。だが、和真はそこで言葉を止めなかった。誰にも曖昧な形で受け取らせるつもりなどない。康太が誰なのか。なぜここにいるのか。そして、これからどの家に迎えられるのか。それを、財界の人々が見守るこの場で、正式に示したのだ。美玲と少年が一歩前に出る。美玲は康太の手を
会場の最後列では、面白くなさそうな顔をした玲子が座っていた。華やかな照明が降り注ぐ壇上とは対照的に、そこは少し暗い。周囲では財界人たちが静かに談笑しているものの、玲子の耳にはほとんど入ってこなかった。遠く離れた舞台上を、睨みつけるような鋭い眼差しで見ていた。―――何なの、いったい!!玲子の中では、鷹宮の当主を引き継いだ、和真の実の兄の婚約者だと自負する自分が、こんな扱いを受けていることが許せなかった。本来ならば、自分はもっと前の席にいて当然だと思っていた。壮真の隣に堂々と立ち、財界の人々から「神崎家の次期当主夫人」として扱われる。それが玲子の思い描いていた未来だった。壮真がやっと美玲と離婚し、雪乃と康太を和真に押し付け、神崎の次期当主の妻になる存在だと思い込んでいた玲子にとって、先ほどの綾乃の「秘書の方は最後列へ………」あの言葉が頭から離れなかった。あのときの綾乃の笑顔。声を荒げることもなく、嫌味を言うわけでもない。ただ淡々と、自分を最後列へ案内した。それが玲子には何より屈辱だった。「何なの、あの女!!」小さく吐き捨てる。ステージの下の明るい照明が当たるテーブルが見えた。先ほど自分を侮辱した綾乃が、一番真ん中で華やいだ笑顔で壇上を見ている。玲子は悔しくて仕方なかった。――どうして、あの女があんなところにいるの?――どうして私は、ここなの?掌を握りしめる。爪が食い込むほど強く握っても、この悔しさは消えなかった。玲子は綾乃の姿を睨みつけたまま、微動だにできないでいる。自分がどれだけ惨めな場所に置かれているのか。それを周囲に悟られたくない。だからこそ、玲子は必死に表情を取り繕っていた。するとステージ上では和真が、妻である心春の紹介を終えた後ステージを降りずに、他にもゲストを紹介したいと言い出していた。それを聞いた玲子は、和真が兄の壮真を紹介するのだろうと思い、少し表情を和らげた。―――そうよね、だって和真は、もともとは神崎の人間なんだもの。実の兄である壮真を無視するはずがない。そう思えば、少しだけ気持ちが落ち着いた。もしかしたら、このあと壮真が壇上に呼ばれるのかもしれない。そして、自分もその隣に立つことになる。そんな期待が、玲子の胸に再び芽生えた。だが――。ステージ上では、和真が心春を促し、舞台袖へ